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No.103

2017年11月某日
 小社の年度末に合わせて7月末に取次の出先在庫の切り替えを行ない(取次の棚に各20〜50冊、合計880冊が収まった)、9月に常備書店への出荷を終えたばかりなので、しばらく注文が途絶える。そのかわりに昨年の常備店からの返品がどっとくる。先月、今期初めての注文が入ったが返品額にはとても及ばない。たぶん年末までこんな感じで、常備の清算が済まないと請求書を起こせない。毎年のことなので、ことさら落ち込んではいないが、やはり減っていくばかりの預金通帳を眺めるのは心細く、寂しいものである。
それよりも、今年は新刊を1冊も出していない、いや出せないで終わるのは確実で、そのほうがもっと寂しいはずである。しかし、思うのは時の経つ早さばかり。予定通り進まないことに対する切迫感に欠ける。この時間感覚と、仕方がないと思ってしまうのは、年のせいもあるだろう。年なんだからゆっくりやればいいと思うこともあった。だが、反省するに、私は危険運転の話題をことさら取り上げて高齢者に免許返上を勧奨するような風潮に対して、抵抗を覚える者なのである。だったら、逆の思考をはたらかせるのが道理であった。年なんだから急がなければならない、と。「年のせい」を消極的な理由にしか使えなくなったら、現役は終わる。
そんなふうに焼きの入れ直しを意識することで、ぼやけた気分が少し晴れたような気がする。ペースが落ちるのは年齢的自然だ。しかし、それには逆らえない自覚を甘えにしてはいけない。物忘れが多くなる老化現象に対して、それ以上にたくさん覚えればいいのだという励ましを思い出した。確かに。今ならまだ笑ってそう思える。当サイトのトップでは3点に新刊マークを付けているが、長いものは2年以上経っても「新刊」である。この現状はさすがにまずい。新刊マークが入れ替わるイメージは描けている。いま言えるのは、そのイメージトレーニングを忘れてはいけないということだけなのであるが。

No.102

2017年9月某日
 また更新を滞らせている。長いこと新刊が出る気配もなく(予告に消極的なホームページも珍しい? 実現できずに立ち消えにした苦い経験以来、事後広告のみにしている)信じてもらえないかもしれないが、開店休業を続けているわけではありません。それだけはまずお知らせしたうえで、現実的な言い訳を1つだけ追加する。小社の出版物以外に毎年引き受けている仕事があって、夏の一定期間はそれに集中しなければならない。今年も同様であったが、原稿量が昨年の倍以上あり、期限内にこなすのは相当に大変だった。やっと昨日、出張校正して責了にした。一段落したところで原稿用紙を広げた次第。
前回枕に書いた気分は一向に晴れないまま書き始めると、どんな異常事態も目に余る非道も、ワイドショーの話題として「消費」される以上の、言論らしい言論が育たないことを憂え、かつてパブリックな言論の場として機能した紙媒体の衰退(「左」を目の敵にする「右」が売りの月刊誌だけは勢いづいているようだが、他誌が消えてしまったぶん派手な広告が目立つのである。それ自体に言論がやせ細っている姿を見る)を追認し、その先の展望がひらけないところで筆が進まなくなる。で、やはりネット空間ばかりが肥大してゆく現代社会そのものに対する慨嘆になってしまう。
「万引きメディア」と糾弾されたDeNAの例を引くまでもなく、フェイクが横行し、人を騙し罠にかけることに知恵を働かせる場になっているネットメディアに、紙媒体がこうもたやすく駆逐されてしまったことを「進歩」とはとても思えないのである。それは右とか左とかの話にはならない。
ネットは当てにならないとか、賢い使い方をしなさいとか警告されても、自らの反省を込めて言うのだが、人は面白い話に飛びつき、フェイクに乗せられやすい。日常的な会話の中にもネットで仕入れた嘘情報が入り込んでいることがよくある。ガセネタほど、そう思い込みたい心理を衝いているので始末に悪い。実のある議論にならず、無駄な時間に消耗するだけである。ある著者の本を俎上に載せて「語り合う」のとは違うのである。
それに比べれば、週刊誌スキャンダリズムのほうが余程健全である。雑誌が軒並み凋落するなかで存在感を示している彼らを、私は応援している。紙媒体の最後の砦のように思われるからだし、何よりも、彼らは現場を踏んで、記事をつくるために自ら汗をかいているに違いないからだ。トップ屋という言葉はもう聞けないが、きれい事ではない、体を張ってネタに食らいつく仕事人がいなければ「文春砲」もありえまい。しかし、文春も新潮も部数減に苦しんでいることが想像に難くない。電車の中吊り広告は見ても、車内で読んでいる人をまったく見ない。スマホを手放せない絶対多数派に座席を占有されている車内風景が気味悪く思えてくることがある。漫画週刊誌を立ち読みしている若者もまったくみない。たまにしか電車に乗らない私は浦島太郎である。しかし、それが流行のスタイルなだけで、どこかで読まれているのだろうと辛うじて思うことにする。
誰だったか、スマホ漬けのすすんだ現在を「疑問を口にしづらい社会」という言葉にしていた。近頃、「話にならない」社会になってしまったとつくづく思っている私は、それに符合する記事を興味深く読んだ。一人ひとりが自分に都合のいい答えを見つければいい、それもスマホが教えてくれる、というのが今の常識的な感覚らしい。私には理解できない。ところが、筆者はそれを批判的に述べているのではなかった。「そういう時代なのだから・・・」と、賢い適応策を具体的に授けるのである。答と結論以外は「話にならない」という現実認識は同じでも、黒か白かの答なんかないと思っている(ここで「無知の知」にもとづくソクラテスのおしゃべりを想起する)私とは何かが違う。上手な対処法を学んでストレスを回避するよう助言されても、私は憮然とするばかり。今の時代にすすんで適応しようとしない私のほうが、やはりオカシイのであろうか? まあ、現代不適応症候群には違いあるまいが。

No.101

2017年7月某日
 更新を途絶えさせたまま3か月過ぎてしまった。貧乏暇なしは変わらないが、仕事にかまけて忘れてしまったわけではない。筆を執ろうとして、いい話がひとつも浮かんでこないことに嫌気がさしてしまうのである。悲憤慷慨の種ばかりで、それに対する書きなぐりのメモはたまっても、雑記の文章にはなっていかない。ここは論陣を張る場ではない。一息つく時間にしたいのである。よしなしごとに筆を遊ばせるなんてことはどだい無理なのであるが、できれば政治がらみの話題からは離れたい。どう書いても、理不尽で非道い現実が見えるばかりで、スッキリすることはない。言論を展開する能力も適性もない。嫌気がさすというのはそういうことだ。かといって、世の中を斜に見て諦観したり、厭世的な気分を募らせたりする文章も書きたくない。
 私の場合、希望の兆しを見つけて、あるいはどこかに見つけたくて、書いているのだと思う。どんなに否定的なことを書いたとしても、どこかで自分を納得させる流れに転調させたいと思っている。そうでないと文章を終えられない。リアリズムを徹底できないのである。
 前置きが長くなった。やっと書きたいことが見つかった。史上最年少14歳の藤井聡太四段の快進撃である。文句なしに明るい話題で、こんなに気持ちのよい大騒ぎもあるのだということに心を動かされた。29連勝の新記録樹立が新聞一面のトップを飾ったのにも違和感がない。解説記事は「人間ゆえの魅力」という見出しを付け、「ありがとう、藤井四段」と結んでいた(6月27日、毎日)。30連勝はならなかった。しかし、負けたこともまた明るい話題になった。藤井君は負けっぷりでも失望させなかった。将来の楽しみに変わっただけで、誰もが「残念」と言いながら笑顔である。勝つか負けるかのデジタル的な結果だけではないのである。負けを受け止める態度、そこに表われる人間に反応して笑顔になるのである。
 以前、AI将棋がプロ棋士と対局して勝ち続け、実力で人間を超えたというニュースに感動した人がどれだけいただろう。「将来が楽しみだ」と笑顔で語った将棋ファンはいないと思う。ソフトを開発した人間がいるわけだが、その人物に対する称賛はどうか? コンピュータの専門家の間でのことは知らない。というより、コンピュータオタクの世界のことが、我々一般人との間で感動を共有できていないという事実を認めることが重要である。
 もたらされた現実に困惑しているにもかかわらず、AIの進化に疑問を呈する論調は、私の知る限り、主要マスコミでは皆無である。生活全般の自動化、省力化、AIのコントロールに頼ることを「恩恵」であり「進歩」であるとするのが大前提になっていて、それに異議を唱えるのはタブーのようだ。せいぜい、悪用されないようにとか「対策」の必要性を付け加えるだけである。AIにかなわないことが「常識」になっていくなかで、藤井君人気の沸騰は、単なる天才少年に対する驚嘆だけではないように思える。AIの席巻を「面白くない」と思う気持ちが、生身の人間力に引き付けられたのではないだろうか。遠からずAIと勝負する日が来るのかどうか。私はそれを見たいとは思わないのであるが、その時、藤井君はどのような態度で臨むのか、また、人々はそれにどう反応するのか、興味深い。
 出版に関係する話題に引き寄せて終えることにする。「AIに小説を書かせる」試みが行なわれているらしい。売れている本の分析結果をインプットして自動執筆させたらいいなんてことも言われている。冗談じゃないと思うが、情報がネットに飛び交い、「フェイクニュース」が影響力をもってしまう現実をみれば、売れるための操作に心を奪われたIT起業家(「実業家」とは呼びたくない)が「勝者」となり、従来の作家や人間力に頼る出版者は退場させられる日が来ないとは限らない。しかし、そんな悪夢は忘れよう。新しい出版の天才出現を夢見たっていいじゃないか。

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